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2008年11月15日 (土)

エリザベス女王杯2008サイン攻略14

エリザベス女王杯 ジョッキーマスターズのサイン読み2

兄と弟(中編)


今回はとても長くなります。
【横山賀一という人物に興味のない方】は読まずに『攻略16最終結論』まで行って下さい。

賀一と典弘は競馬サークルに生まれた1歳違いの兄弟です。
父・富雄は天皇賞をはじめ数々の大レースを制した騎手。
当然のように、将来はふたりとも騎手の道を歩むであろうことを周囲は想像していたようです。
しかし、兄と弟に対する評価は若干異なっていました。

何事にも慎重で、疑問を持つと徹底的に追求しないと気がすまない理論派の賀一。
無鉄砲で恐いもの知らず、抜群の運動神経を持つ典弘。
「ノリちゃんは、いい乗り役になる」と近所の奥さんたちから、母・若子さんはしょっちゅう言われていたそうです。

1981年、中学3年生になった賀一は競馬学校へ願書を提出しました。
学校の入学基準に体重43キロ以下という項目があったのですが、賀一(と母・若子さん)はその当時の体重44キロを正直に記入し提出しました。
結果は『書類選考による不合格』。
門前払い。
つまり試験を受けさせてもらえなかったのです。
試験までにはまだ期間が充分あるにもかかわらずです。
なにも現役の一流騎手を父に持つのだから融通をきかせろといっているわけではありません。
体重制限の根拠は『大人になったときに体重オーバーになる危険性が高い人物を除外するため』なのですから、入学時あるいは試験当日に規定の体重以下ならよいではないですか!
書類選考の段階で落とすほどのこととは到底思えません。

その後、失意の1年を過ごした賀一でしたが、騎手の夢を諦めることなく再度競馬学校へ願書を提出しました。
が、またしても彼は試験を受けさせてもらえなかったのです。

彼にとって、運命は非情でした。
同時に願書を提出した典弘が合格してしまったのです。
『遊びたいから』という理由で一緒に習っていた乗馬をやめてしまった弟の典弘が、『ただなんとなく騎手になろうかな』と受験した弟だけが、騎手を切望してやまない兄を差し置き競馬学校の門をくぐることになったのです。

JRAは閉鎖的な組織ですが、当時は今よりもさらにその傾向が強かったように思います。
1年目に書類選考で落とした人物を、次の年に書類通過させたのでは、『いったい基準はどうなっているのか?体重だけが問題だったのか?』といわれること必至。
憶測の域を出ませんが『JRAの面子』を優先したのではないかと私は思います。

そんなとき、賀一に救いの手が差し伸べられました。

「賀一、ニュージーランドで騎手にならないか?」

父・富雄の友人で当時ホースニュース馬社でトラックマンをしていた沖田雅輝氏です。
彼の勤める馬社の社長・角田輝雄氏は海外とのパイプを有しており、それを活かしてバックアップしてくれるというのです。

「日本でダメなら、外国で騎手になってやる」

賀一は単身ニュージーランドへ乗り込むという道を選びました。
しかしその道は少年賀一が考えるほど平坦な道ではなかったのです。

ここから先は『松田隆著・天馬をい眺ていた少年-南十字星の下で-』から引用したいと思います。
少し長いかもしれませんが読んでいただければ、賀一と典弘の物語が理解できると思います。

爽やかな気候の下、ニュージーランドの名門ステーブルに所属し清潔な施設、騎乗技術をコーチされ……という描いていた夢と現実とのギャップは大き過ぎた。2日目以降は最大で12頭まで調教をつけた。通常は午前9時に調教が終わり10時まで休憩時間だが、調教が9時30分までかかっても休みは10時までだ。わずかな休み時間に食事をとってから今度はきゅう舎作業に入る。上げた寝ワラを馬房に敷き直し、1頭1頭カイバをつける。手が空いたら、壊れたフェンスの修理、ペンキ塗り、草むしりと仕事はいくらでもある。「おれ、こんなことするために、ここに来たんじゃないよなあ」。草をむしりながら、賀一は1人でボヤく日々が続いた。当時、オサリバンきゅう舎にはゲブン・バトラー、ショーン・ダウリングという2人の先輩騎手候補生かおり3人1組になって大工仕事や庭師のような仕事に励んでいたのである。それやこれやで、1目の仕事が終わるのは午後5時か5時半頃、2日に1度は午後7時過ぎにきゅう舎に行って、水桶やカイバのチェックをしなければならない。2週間に1度の休日では、とてもではないが体の疲れは取れないし、また仕事以外にも堪えられないことはいくらでもあった。ひとつは言葉の壁である。英語が満足に理解出来ない賀一は、他のきゅう務員から指示を出されても即座に反応が出来ない。うまくコミュニケーション出来ないきゅう務員はイライラして「ヤツはノロマだ」というようなことを言っているのは、何となく分かった。人種的な差別を感じることもあった。また19歳の賀一もきゅう舎では一番の新入り。16、17歳の「先輩」きゅう務員から頭ごなしに、ああしろ、こうしろと指示されるのも腹が立った。身を削るような仕事の報酬は1週間にわずか98ニュージーランド・ドル(約8000円)だ。楽しみと言えば睡眠だけ、肉体的にも精神的にもギリギリの生活が続き、さすがに我慢も限界に近づいていた。オサリバンきゅう舎に来て3週間で、早くも嫌気が差してしまったのである。1人になると「どうやったら、この状況から逃げ出せるのだろう」といつも考えていた。シンモンズ会長の所に行って、目本に帰らせて貰おうか」「給料で日本行きの飛行機のチケットを買おうか」。色々なことを思い巡らせるのだが、結局は「ここに残るしかない」という結論に達し、脱走計画は幻のまま、1日が過ぎてゆく。

 賀一にとって不運(ある意味では幸運なのだが)だったのはオサリバンきゅう舎が、ニュージーランドでも1、2を争うハードワークを課すきゅう舎だったことである。日本でもそうだが、それなりの成績を挙げているきゅう舎というのは、やはりスタッフも良く働いているものだ。あまりの厳しさに、新しいスタッフが来ても10人のうち7人は堪えられずに辞めていく。賀一が滞在中に入った騎手候補生の中には「ちょっとトイレに行って来る」と言い残して、そのまま帰って来なかった者もいた。それを考えると、年齢、言葉のハンディを持つ賀一が辞めずに続けたのはかなり評価出来ることなのだ。

 わずかに残る義務感と、そしてひとつ違いの弟に対す屈折した感情が、逃げ出したい気持ちに、どうにかブレーキをかけていた。
 -弟。横山賀一にとって弟は終生のライバルと言ってもよい。ひとつ違いの弟は競馬学校を経て騎手デビュー。溢れんばかりの才能で、一流ジョッキーヘの道をばく進していた。-横山典弘である。兄として弟の活躍が誇らしいと思ったことは一度とてない。弟は騎手という「競馬の華」に向かって、それを最も望んでいた兄の横を通り過ぎ一気に駆け上がっていった。自分を追い抜いていった者を素直に祝福出来る訳がない。「弟に負けたくない」という思いが、賀一に赤道を越えさせた。
 だが騎手としてスタートした弟に比べそのスタートラインにすらついていない。19歳という年齢も、希望より不安の方が大きのは事実だ。そんな思いが賀一に吹きつける寒風をより寒々としたものにしていた。

 87年8月16日、調教を終えた賀一をオサリバンが呼び止めた。「カズ、今度、本物の競馬に乗ってみろ。お前もそろそろデビューする頃だ」。 ニュージーランドには競馬学校のようなシステムはなく、騎手になりたいものはそれぞれきゅう舎に弟子入りし、最低1年間修行をしてから実戦に出てゆく。日本では1年に多くて12人程度が騎手となるが、彼の地ではそれこそ1年に100人、150人が見習い騎手となり、年月を経て徐々に淘汰されていく。87年当時、オサリバンきゅう舎と付き合いのあったきゅう舎が、アバドロー(ABADRILL)という馬をレースに出走させようとしたが、肝心の騎乗者がいない。そこでオサリバンきゅう舎に依頼をしたところ、賀一を薦められたのである。ニュージーランドに渡って1年と2ヵ月、極めつけのアンラッキーボーイにも、ようやくチャンスが巡ってきた。

 勝負服を着てターフに出た賀一はガラガラのスタンドを見た。雨ということもあり観客は1000人前後。(まあ、こんなもんか)。特に気持ちの高ぶりはなかった。それも当然かもしれない。騎手としてデビューするだけなら、システム面から見てもニュージーランドはかなリ楽であることは分かっていた。大事なのはデビューしてからの厳しいサバイバル戦に生き残っていけるかどうかなのだ。生き残って初めて「自分はジョッキーである」と胸を張れるのだ。自らの生存をかけた戦いだけに見習い戦とはいえレースはタフである。18頭の好位を進んだ賀一は直線半ばで馬より先にバテてしまった。調教では4、500メートルもビッシリ追ってくることなどまずない。腕が上がらなくなり、最後は馬の動きに合わせて腕を前後に動かしていただけで、結果は14着。半年前に初めて参加した能力検定ではいきなり勝ち星を上げたが、さすがに実戦では厳しさが違う。降りしきる雨が必要以上に冷たく感じた。

 とにかくデビューは果たした賀一だが、なかなか騎乗馬は増えなかった。何しろ、きゅう舎にはリーディングジョッキーのランス・オサリバンがデンと控え、勝てそうな馬はまずランスが乗ってしまう。ランスが乗れなくても、その下に2人の先輩騎手がいては、お手上げである。デビューから3ヵ月たった11月28日、テテコ競馬場でようやく初勝利を手にした。13戦目の白星であった。騎手になってから賀一の日課に営業が加わった。黙っていては騎乗馬は増えない、とにかく自分を売り込むしかない。新聞や雑誌を見て騎乗者が決まっていないような馬を見つけ、そこの調教師に電話をかける。「僕はオサリバンきゅう舎のヨコヤマというジョッキーです。そちらの○○○という馬の騎乗者は決まってますか? もし決まってなかったら僕を乗せてくれませんか?もちろん調教だって乗れますよ」と一気にまくし立てる。相手の反応は大体同じようなものだった。たった一言「Who are you? (お前は誰だ)」。

 賀一にとって数少ない楽しみのひとつに日本の雑誌を読むことがある。知人を通じて競馬雑誌『優駿』を郵送してもらっていたのだ。調教が終わると隅から隅まで目を通して、日本の競馬の情報を仕入れる。レース写真を見るのも楽しみだった。ある時レース写真の中で、1人だけ妙に騎乗フォームが決まった騎手を見つけた。「うまく流れに乗っている感じがするし、格好もいいな」。ところがよく調べると、それは自分の弟・典弘である。自分はなかなか勝ち星が上がらないのに、典弘は天性の才能が徐々に発揮されているのが悔しかった。同じ雑誌に典弘の特集を組んだ記事を見つけた。2、3ページに渡るその記事の部分を、賀一は目も通さずに破り捨てた。

 88年になっても騎乗馬が増えずに悶々としていた賀一は、転きゅうを考えていた。乗り手が不足しているようなきゅう舎に行った方が乗り馬は増える。あれこれ悩んでいる姿にオサリバンも気付いたのか、ある日、賀一を誰もいない所に呼んだ。「カズ、今の境遇に満足しているか? このままの状況だと君をトップジョッキーに育てる自信が持てないんだ。君は騎乗馬が増えれば、絶対にいい騎手になれる。でもそれはウチにいたらとても難しいことなんだ。私の言ってることが分かるかい?」。調教師の方から転きゅうを勧めたのである。賀一は嬉しかった。普通の調教師なら所属を離れることを許さず、騎手を引退させて自きゅう舎の乗り手として確保することが多い。だがオサリバンは「飼い殺し」をするようなアンフェアーなトレーナーではなかった。転きゅうこそが今の賀一にはベストである、と考えてくれたのだ。

 オサリバンきゅう舎を離れた賀一は、いったん日本に帰って休養を取っていた。

 わずかな滞在の中、賀一はすでに現役を引退していた平井三雄を平井きゅう舎に訪ねた。すでに調教肋手になっていた平井は、久し振りに会う後輩が一段とたくましくなっているのが嬉しかった。それでも「この前、ノリがウチの大して走らない馬に乗って3着に持ってきたんだ。やっぱりノリは追えるよな」と話が弟に及ぶと、賀一の表情は一変、「オレの方が追えるさ」と露骨にいやな顔を見せた。平井は(まだまだ典弘へのこだわりは消えてないようだ)と少しばかり憂うつな気持ちになったが、逆に(それぐらいの負けん気がなければジョッキーとして大成しないのだろう)という思いもあった。まして現在の境遇を考えれば仕方のないことである。逆に典弘は以前より賀一に対して好意的になっているのを感じることがある。平井が引退する前、典弘と調整ルームで話をする機会があった。「賀一はニュージーランドに行ったけど、ヤツは英語出来るんか?」と聞くと「兄貴は家族で一番、頭がいいんだ。だから大丈夫だよ」という答えが返ってきたものだ。2人の態度の違いが、兄弟の現在の置かれた立場をよく示しているようだった。

 ニュージーランドに戻った賀一はジム・ペンダーというきゅう舎に所属した。ここはピーター・シモンズ会長が実質的なきゅう舎の長で、ペンダー調教師が運営を代行しているようなものだった。シモンズの意向もあり、乗り馬は徐々に増え、それにつれて勝ち星も伸びてゆく。そうなるとレースも次第に見えてくる。今までは無我夢中でレースに参加していたが、「ここで仕掛けると、しまいが甘くなるな」とか、「この馬を楽に行かせるとうるさいから、早めに潰しにかからないと……」など、レースの流れを冷静に分析出来るようになってきた。

 89年にはもうひとつ忘れられないことがあった。この年の12月28日、オークランドのエラズリー競馬場でネイサンズ・メモリアルHというレースに馬社の角田社長の持ち馬・フジで出場。2200メートルを2分18秒28で駆けて1着になったのだ。恩人の馬で勝てた、それも目の前で。そして奇しくもその日は賀一にとって23回目の誕生日でもあった。

 90年5月から賀一は豪州に活躍の場を移した。豪州とニュージーランドは競馬の交流は頻繁で、ニュージーランドで成績が上がってきたジョッキーは賞金の高いオーストラリアに移ることが多かった。それだけ豪州のレベルが高いということであり、賀一はそういう場所で自分を試してみたかった。

 オーストラリア遠征はわずかに3ヵ月だったが、得るものは多かった。勝ち星こそなかったものの、2着が1回。後にメルボルンCにも出走するような馬にも騎乗出来た。

 騎手として成長してくると、独自のカラーが出てくる。これがまた賀一と典弘とは正反対であるのは興味深い。典弘は「競馬は魅せるスポーツ」と割り切っている。いかに格好よく勝つかが、プロとして腕の見せ所というのである。派手な追い込みが得意なのも、そのあたりとは無縁ではない。賀一は「どんなに格好悪くてもいいから、とにかく勝つ」ということを常に念頭に置いていた。「追って追って、馬がバテても、それでも追って何とかもうひと絞りを……」という競馬哲学を持っていた。当然レースでは、リスクの少ない好位からの競馬を好むようになる。
 この年の9月に賀一は再びニュージーランドに戻り、マタマタにあるマイク・マローネきゅう舎に入った。ここで才能は一気に開花する。豪州帰りの賀一は周囲の目も変わっていた。騎乗馬は爆発的に増えた。賀一の真骨頂を見せたのは91年3月23目のトラスト・バンク・クラシック(1400メートル)というレースである。アイリッシュフロートという400キロそこそこの小柄な牝馬でエントリーし、見事に先行して抜け出したのである。単勝43倍の伏兵の優勝に場内はどよめいた。90年8月から始まるシーズンでは勝ち星を重ね、91年4月までに27勝を挙げて見習い騎手のリーディングを争うほどになった。だが良いことばかりは続かない。91年4月26日、朝の調教をつけていた賀一は、落馬して右足のくるぶしを骨折してしまう。「ああ、やっちまった! ダメだ、骨までいっちまってる」。リーディング争いの渦中にある賀一は、その痛みから瞬間的に骨折したことを悟り目の前が真っ暗になってしまった。3ヵ月間、騎乗が不可能になった賀一はやむなく一時帰国する。日本で静養して、騎乗出来るようになればニュージーランドに戻るつもりだった。それでも自宅で1日することもなく過ごしていると、不安が次から次へと襲ってくる。賀一もすでに24歳、将来に対する展望も持たないといけない年頃だ。ニュージーランドに永住する訳にはいかないし、いずれは日本に住むことになるだろう。そうなると日本で職を持たないと生活出来ない。「果たしてジョッキーになれるか?」答えはNOだ。競馬サークル以外の職業というのも今からでは辛い。「それなら、若いうちに競馬学校のきゅう務員課程に入って調教助手になった方がいいのかもしれない」と真剣に考えるようにもなった。かつての同級生が皆、一人前の社会人になっているのを見ると、将来の保証のない自分は焦らない訳はない。ある日、沖田が自宅を訪ねてきた時、つい弱音を吐いてしまった。「オレ、こっちで助手になった方がいいのかな」。沖田は烈火の如く怒った。「オレたちは、お前を助手にするためにニュージーランドに行かせたんじゃないぞ。なるならジョッキーしかないだろう?そんなことは2度とオレの前で口にしないでくれ」。子供の頃から父の友人として知っていた沖田が、これだけ怒る姿を今までに見たことはなかった。
 ケガも大分癒えた頃、賀一は美浦トレセンの公正室をブラリと訪れ、父の代からの知り合いだったJRAの職員らと世間話をした。公正室は騎手の私生活の監督や、レースでは審判に加わるなど権限の大きいセクションである。その公正室の職員が「いつまでニュージーランドにいるつもりだ? 日本に帰るつもりはないのか?」と聞いてきた。「まさか、日本で騎手になれないでしょう?」と多少皮肉ましりに問い返すと、意外な返事が戻ってきた。「いや、君の場合、受験資格はあるよ。取りあえず願書を出すだけでも出してみたらどうだ?」。父が活躍した中央競馬で騎手になるのは、幼い頃からの夢だった。「ひょっとしたら……」という希望が賀一の胸の中で頭をもたげてきたのである。
 ケガが治って一時、ニュージーランドに戻ったが91年11月には再度帰国。騎手試験へ願書を提出した。すでに競馬学校の3年生たちは1次試験を終えていたが、JRAでは競馬施行規則にある「海外で騎乗経験等ある者は、騎手試験の一部を省略できる」という規定を適用して2月4日から6日に行われる2次試験の受験を許可した。これまで外部からの受験を認めなかったJRAにとっては大変な決断であった。例外を認めることを極端に嫌うJRAのこの変化は一体何だったのだろうか。まずニュージーランドでの実績を評価したことが一番だ。競馬学校不合格となった体重面も、20歳を過ぎて50キロそこそこなら問題はない。さらにラッキーだったのは、地方競馬での騎乗がなかったことがある。JRAにとって最も恐れているのは、競馬施行規則の規定を盾に、地方競馬の騎手が地方→外国→JRAというルートで大量に流入することである。仮に受験を認めても、「彼には地方競馬での騎乗経験がなく、(人材の補給という面での)中央と地方との摩擦には無縁であるから受験を認めた」という言い訳が出来る。賀一を取り巻く環境は急速に好転してきた。明けて92年。2月の実技試験は騎手として活躍していた賀一には、それほど厳しいものではなく、まずは無難にこなせた。あこがれの日本での騎手の座は、もう手の届くところまで来ていた。発表は2月13日。もう出来ることは神に祈ることぐらいしかなかった。

 北風が吹き付ける美浦トレセン。事務所一階、庶務課の前の掲示板に50名を越える人間が集まっていた。その中の1人に沖田がいた。調教師、騎手試験の結果の大方の注目は増沢末夫騎手と安田隆行騎手の調教師試験の合否にあったが、沖田の関心は賀一だけだった。「賀一の子供の頃からの夢がかなう」と思うと、心が浮き立たずにはいられない。午後5時、職員が1メートル四方に合格者の書かれた紙を張り出す。あちこちでどよめきの声が上がった。沖田は人波をかきわけて前に進み、騎手の欄の横山賀一の名前を探した。「あった!」。確かに横山賀一の名前が書かれている。合格だ。すぐに公衆電話に走るとかけ慣れた番号をプッシュ、2回目のコール音が鳴る前に若子が出た。「お母さん、合格だよ、賀一君が受かったよ!」。周囲の人間が振り向くような大きな声になっていた。電話口の向こうで、若子が泣いているのが分かった。
 合格の報を受けた賀一はすぐさま事務所に出向き、共同記者会見の席に臨むことになった。合格発表の掲示板の前には典弘もいた。2人は取り囲むカメラマンの要望で握手を交わした。81年に最初の試験に落ちてから11年。4度目の願書提出でようやくJRAは門戸を開いてくれた。典弘と握手を交わしながら、賀一は11年の月日を思った。「ノリには感謝をしなければいけないな」とも思う。「ヤツヘの対抗心が、オレをここまでもたせてくれたんだ。弟がいなければ今頃は調教助手になって、弟のために馬を仕上げていたかもしれない」。そう思うと少なくとも、かつて典弘のページを破り捨てた時のような激しい敵愾心を持つことは出来なかった。皮肉なもので典弘がいたから横山賀一騎手が誕生し、ニュージーランドで骨折してリーディングを逃してから、急速に運が向いてきたのである。それでも記者会見の席で質問が典弘のことに及ぶと「あいつは抜かれるための存在でしかない」と、とても兄弟とは思えない過激なセリフを吐いてマスコミを驚かすとともに「これは刺激的な見出しになる」と喜ばせた。賀一にしてみれば勝負はこれから、もう一度、一からサバイバル戦が始まるのである。これぐらいの言葉は当然のことであった。

 デビューを翌日に控え、賀一は布団に入ってもなかなか寝付かれなかった。無機質な天井を眺めながら、自分白身の人生を思った。「もし、高校生の頃に戻れたら、もう1度同じことをしただろうか」。日本を出る時、中央競馬の騎手になれるとは願ってはいても、ほとんど期待はなかった。あるのは騎手へのあこがれと、弟への対抗意識だけ。「みんなの応援と、すべてがうまく行ったから、こうして騎手になれたんだ。幸運だったんだ」。-幸運。これほど自分の人生と無縁の言葉もない。不運の連続が、賀一に気の遠くなるような遠回りを強制したのであるから。「どうして、オレだけこんなに運がないんだ」と呪ったこともある。それが今、デビューを前に「幸運だったんだ」と振り返っている。行き着くところは、「運命」ということなのかもしれない。答えの出ない自問自答に疲れた賀一は、いつしか眠りに落ちていた。

 一夜明けた3月1日、午前7時過ぎに美浦をハイヤーで出発し、賀一は中山競馬場へと向かった。検量室のロッカーに、真新しい紙で「横山賀」と書かれてあるのが、騎手への実感を確かなものにした。何人かの騎手が「頑張れよ」とばかりに肩を軽くたたいていくのが嬉しかった。午前10特10分、2Rに騎乗予定のモーニングシャワーにまたがり、パドックの中を回り始める。まだ春には遠いこの季節、吹く風も冷たく感じられた。それでも朝の2Rから、熱心なファンが周囲を取り巻いている。賀一への声援がひときわ大きい。ニュージーランドでは気軽にファンと話が出来たが、今は声援が聞こえても表情を変えずに回らなければならない。-ここは日本なのだ。

 モーニングシャワーは前走7着、その前が14着。勝機はほとんどないと見られていたし、またがった時にも、それほど光るものは感じなかった。かなり熱心なファンでなければ、名前を聞いただけではイメージは浮かばないだろう。引退して1カ月もすれば、存在自体、忘れられてしまうような馬である。「それでもオレは、このモーニングシャワーという馬を一生忘れないだろう」。あまり闘志が感じられない馬の背で、賀一は思った。父の勇姿を何度も見た中山競馬場。昔はパドックを外から眺めるしかなかった自分が、今こうしてパドックの中で馬にまたがっているのが信じられなかった。「このラチを越えるのに11年かかったのか」。赤道を越え、幾多の苦難を越え、ようやく今、高さ1メートルもないラチを越えたのである。

 スタート前の張り詰めた空気が場内を支配する。エアポケットにおちいったような、ほんのわずかな間の静寂。「フッ」と小さく息をはいた賀一が、9頭の待つゲートの中に静かに吸い込まれていった。

『天馬を眺ていた少年』
著者 松田隆
発行 1992年11月20日(大安)
発行者 髙木昭彦
発行所 株式会社三心堂

第2回ジョッキーマスターズの馬柱に並んだ横山賀一と典弘の兄弟が、仲良く手をつないでいるわけではないことがお分かりいただけたと思います。

次回『攻略15・兄と弟(後編)』で具体的な解読に入ります。

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コメント

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申し訳ありませんが、携帯アクセスの方も、本記事(エリザベス女王杯2008サイン攻略14)でお読みください。

http://jra-sign.air-nifty.com/blog/2008/11/2008-dbac.html

投稿: ドラゴン | 2008年11月15日 (土) 23時48分

皆様、はじめまして。
いつも楽しく拝見してます。
私はすでにカワカミ頭の馬券を前売りで購入してるのですが、新たに発見した事がありましたので、今回初めて投稿させていただきます。

7枠三頭の末尾文字が【ア】【ナ】【ス】になってますが、私の携帯で[あなす]と入力すると予測変換でアナスタシアと出てきました。
調べてみるとアナスタシアとはギリシャ語で[目覚めた女/復活した女]という意味があるそうです。
カワカミのことを暗示してるのではないでしょうか?
さらに頭文字のほうが【ベ】【コ】【カ】並び変えると[ベカコ]になります。
関西在住の方なら[ベカコ]と聞けば、桂べかこ(現 南光)さんを思い浮かべると思いますが、元々の漢字名は桂米歌子だったそうです。
【米歌子】
調べると、【米】国の【歌】手にアナスタシアという女性がいました。
彼女は2002年 日韓W杯公式ソング[Boom]を歌ってたそうです。
[絶対負けられない…]のサッカー関連のサインとも一致します。
最後に桂べかこさんの本名は
【横】田 【弘】です。
【横】山典【弘】

◎カワカミプリンセスに自信が持てました。
気になるのは[べかこ]の意味がアッカンベーだということだけです(笑)。

投稿: ナゾー | 2008年11月16日 (日) 00時24分

ドラゴンさん、皆さんこんばんは。サインコサインです。

《結論》


あれこれ悩みましたが…


も〜この馬と秋の牝馬G1は心中です!


◎10ピサノジュバン


PS.ドラゴンさん、マジ泣きしました。

投稿: サインコサイン | 2008年11月16日 (日) 00時37分

皆様、はじめまして。
いつも楽しく拝見してます。
私はすでにカワカミ頭の馬券を前売りで購入してるのですが、新たに発見した事がありましたので、今回初めて投稿させていただきます。

7枠三頭の末尾文字が【ア】【ナ】【ス】になってますが、私の携帯で[あなす]と入力すると予測変換でアナスタシアと出てきました。
調べてみるとアナスタシアとはギリシャ語で[目覚めた女/復活した女]という意味があるそうです。
カワカミのことを暗示してるのではないでしょうか?
さらに頭文字のほうが【ベ】【コ】【カ】並び変えると[ベカコ]になります。
関西在住の方なら[ベカコ]と聞けば、桂べかこ(現 南光)さんを思い浮かべると思いますが、元々の漢字名は桂米歌子だったそうです。
【米歌子】
調べると、【米】国の【歌】手にアナスタシアという女性がいました。
彼女は2002年 日韓W杯公式ソング[Boom]を歌ってたそうです。
[絶対負けられない…]のサッカー関連のサインとも一致します。
最後に桂べかこさんの本名は
【横】田 【弘】です。
【横】山典【弘】

◎カワカミプリンセスに自信が持てました。
気になるのは[べかこ]の意味がアッカンベーだということだけです(笑)。

投稿: ナゾー | 2008年11月16日 (日) 00時37分

こんばんは、プロジェクトパパです。

エリザベス女王杯

非常に難解なレースであると思います。
このレースのサインは、出走馬の中の最低人気馬がヒントになっていると考えます。
出走馬中の最低人気馬の5または6つ隣ゲートから、2着までの連対馬が出現しています。
このサインは、1998年から昨年まで続いています。
過去のパターンを書き込みますと、長くなりますので省略します。興味がお有りの方は、是非一度調べてみてください。

このサインを今回に当てはめますと、現時点では

10番ピサノジュバン

が最低人気馬となっています。
浮上する連対候補馬は、

4番フェアブリーズ
5番ポルトフィーノ
15番カワカミプリンセス
16番リトルアマポーラ

です。この4頭の中に連対馬が潜んでいると考えています。

この出馬表には、作為的な箇所があります。

JRA VAN情報 出馬登録

トールポピー
トウカイルナ

レッドアゲート
レインダンス
レジネッタ

この並びは間違いです。
間違い箇所は、
トールポピー
レッドアゲート
レジネッタ
です。
この中で、トールポピーは出走していません。

枠順の中で、
2番レッドアゲート
1番レインダンス
18番レジネッタ
と、そのままの形で、配置されているのは、作為的であると考えます。また、出馬登録の間違い箇所の馬2頭が同居している8枠は、かなり注意が必要でしょう。

17番トウカイルナ
18番レジネッタ

明日答えを書き込みます。

投稿: プロジェクトパパ | 2008年11月16日 (日) 01時15分

攻略6でコメントした『始めて』は三冠スティルインラウ゛そしてその四冠を阻止した武豊、初めての外国馬の出走した03年のエリザベス女王杯と取りました。
◎ 5 ポルトフィーノ
〇16 リトルアマポーラ
▲ 6 トレラピッド
△12 アスクデピュティ
△10 ピサノジュバン
△15 カワカミプリンセス
三連単
5-6・16 -6・10・12・15・ 16

投稿: アッチラ | 2008年11月16日 (日) 01時54分

おばんです!
 
【川上プリンセス】は、やはり勝てないと感じます。
 
《理由1》
無敗でオークス.秋華賞を制し、挑んだエリザベス女王杯で【16】を背負って降着以来、一度も勝っていない事!
どんなに強かった馬でも、負けグセがついてるかも!
 
《理由2》
勝てなくなった原因?の【エリザベス女王杯】でまたまた断トツ1番人気!二年前の借りを返して【負けっ放し】に終止符を打つ?
少々、出来過ぎな感が否めません。
 
《理由3》
お隣りにはいわくつきの降着ゼッケン【16】番!【リトルアマポーラ】
小さなひなげしの花、
花言葉は【慰め】。
 
【16】に慰められちゃってる様にみえます(^-^;
なので、川上プリンセスは〇対抗以下にします。 
今のところ
◎16【リトルアマポーラ】を考えてます。
【川上プリンセス】は、またも【16】に悩まされるのかな?
 
それから、今回からの
ジャパンオータムインターナショナル。
オータム=秋山
【13】ベッラレイア
インターナショナルから、外国馬2頭【4】【6】。 
 
レ・レ・レの真ん中に入った【レ(in)ダンス】の【1】。
こんな感じで、他にもヒモに何頭か買います。

投稿: メリーさん | 2008年11月16日 (日) 04時08分

ウマや玉やです。
おそらく最終予想になると思います。
前投稿した予想に4枠も連対として加えます。

神仏習合から日本の神、(恵比寿)を忘れてました。
この不景気に必要なのは商売繁盛、五穀豊穣の神

4枠はサインが一番さりげなくシンプルで不気味です。
⑦(マ)イネルレーツェ(ル)・・○
⑧エフティマイア・・・・・蛯名→(エビ)ス

<予想>
⑤-⑯-③⑦⑧⑪⑫⑬⑮ 7点買いの3連複
⑤-③⑦⑧⑪⑬⑮ 
⑯ー③⑦⑧⑪⑬⑮ 各6点買いワイドあたりで

投稿: ウマや玉や | 2008年11月16日 (日) 04時27分

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